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るたろぐ

暗記地理からの解放。

「この国の最高責任者は首相じゃない」が叩かれるこの国の異様性

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茂木健一郎さん、SEALDsデモで忌野清志郎を歌い、そして踊る「安保法案、腐った法律」

 

安倍っちの「最高責任者は私だ」発言に呼応したSEALDsの奥田愛基氏のツイートが話題のようである。

 

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民進党の結党大会で来賓として呼ばれたシールズの奥田愛基氏は「憲法を守りますか、日本の総理大臣を守りますか。憲法を守るでしょ。この国の歴史をバカにしないでください。この国に生きる人々をバカにしないでください」と絶叫した。首相に対し「国民ていうのは、あんたのおもちゃじゃないし、あんたのものでもない」と訴えた後、「この国の最高責任者はあなたじゃない」と、意味不明な独自の見解を披露した。

産経という新聞社によればこの言説は「意味不明」らしい。意味不明である。

 

SEALDsという団体へのネット上での誹謗中傷は後を絶たない。私はSEALDsのシンパではないから、当然ながら、活動の先鋭化や、そのこととは裏腹に国会前が出会いの場と化していると指摘されるような状況、幹部による度重なるTwitterでの不用意な発言、といった団体が抱えている問題への批判は彼らも甘んじて受け入れるべきだと思ってるし、承服しようとする努力もしているように見て取れる(ガバナンス下手だから実行できないのもまた問題だが)。しかしながら、SEALDsに対して「無批判な批判」とも見て取れる的を射ない批判や無用な誹謗中傷の類は、ある種の異様性を感じるものでもある。産経も含めて。

 

 

残念ながら今回の奥田氏の発言にはなんの問題もないように思える。「この国の最高責任者は首相じゃない」発言の枕言葉には「首相は行政府の長」との断りがあるのであって、論理構成としては「首相は行政府の長に過ぎないのであって、この国の最高責任者を首相と解するのは適切ではない」という意味合いに理解できる。この発言に「じゃあ誰だよ」と切り替えすのは、ちょっと反知性主義をかんじる(小並感)

 

そもそもわが国の統治機構に「最高責任者」という概念は存在しない。三権による権力の分立はモンテスキューの時代から民主政治の基本とされるシステムだし、それぞれが抑制と均衡によって「最高責任者」とならないような形になっている。しいて言えば国民から直接選挙で意思反映のなされる国会が日本国憲法41条で「国権の最高機関」と規定されているのを考えれば、便宜的に国会が最高責任者(機関)と考えるのが筋かもしれないし、日本国憲法の三大原則のひとつである「国民主権」を国民が最終責任を負うと考えるのも(倫理的には問題かもしれないが)論理的には無理筋とならない。法学畑の人間ではないので深くはツッコまないが、いずれにせよ、少なくとも今回については奥田氏の発言に正当性があるのは確かなのである。

 

偏差値28だあーだこーだと何かにつけて批判されがちな奥田氏であるが、主張の是非は置いておいても、彼は非常に聡明な人間であるように思える。少なくとも「軍靴の足音が聞こえる」というスローガン(?)にその気質が現れているオールド左翼のように、内輪の詭弁にも似た論理を発信しようとする意図が彼にあるわけではなさそうだし、色眼鏡を排除して見ることができるならむしろ抜群のプロモーション能力で共感を得ることが容易な発言を繰り返しているように思える。やはり異様性というのは、ポジショントークしかできないネトヤン(もはやネトウヨでもない)による非論理的な批判・中傷が、ネット上で広く容認されていることに起因するのではないかと思う。ポジショントークの論理性が破綻してるなんて自ら論破されにいくのと同じじゃん。

 

ついでに言うと、そんなネトヤンたちがSEALDsにブロックされて「民主主義とはなんだったのか!」などと騒ぐ姿もなかなかに面白い。民主主義のプラットフォームを140字でしか表現できないTwitterに求める姿勢は見苦しいものがあるし、ホンキのハナシアイツールにTwitterを活用していること自体がちょっと頭の悪い姿勢であることも自覚すべきである。Twitterはその特性上、割り切ることをある程度必要とするツールである。Twitterガチ勢は自身の主張を140字で表現しようと努めている滑稽さに早く気付くべきである。見苦しい。

 

 

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