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名古屋城天守閣木造復元から考える~建築の二次形態の歴史性について~

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4月23日、名古屋市長選挙の投開票が行われ、大方の予想通り、現職の河村たかし氏が大差で4選を果たした。河村氏は選挙前よりさかんに名古屋城天守閣の木造復元を訴え、「不退転の決意でのぞむ」と強いこだわりを見せ続けている。とはいえ、500億円とも言われる財源は大きなネックで、河村氏は2027年までの完成を主張しているものの、かねてからの議会との対立もあり、再選したからと言って容易に事が進む保証は無い。

 

ところで、なぜ河村氏は名古屋城天守閣の木造復元にこだわるのだろうか。現在の名古屋城天守閣は戦後に再建された鉄筋コンクリート造のものである。外観こそ創建当時の姿をほぼ継承しているが、内装は現代的で、エレベーターが設置されているのは有名な話だ。河村氏は「400年後の未来の世代まで残せる市民の大きな財産・プライドの象徴として」天守閣の木造復元が必要だと言うが、確かに現在の天守閣には、創建時の本物性が宿っているとは言い難く、本物性という「プライド」を強調するなら木造復元が望ましいとする立場も一理ある。

 

しかし、ここで問題を提起してみたい。現在の名古屋城天守閣が再建されたのは今から約60年前、1959(昭和34)年のことだ。一方で創建時の名古屋城が焼失したのは1945(昭和20)年5月の名古屋空襲でのことだ。つまり多くの市民にとって、創建時の天守閣の記憶は机上の話に過ぎない。翻って現在の天守閣は半世紀以上にわたって市民の記憶に焼き付けられてきた。創建時の姿を「一次形態」、再建時の姿を「二次形態」と定義すると、二次形態の方が市民にとっての今この瞬間のリアルな記憶としての歴史性には富んでいる。戦後間もなく市民の寄付によって再建された現在の天守閣が「復興のシンボル」と言われるゆえんは、この歴史性に拠るところが大きいだろう。

 

また半世紀余という歳月は、建築物がそれ自体としての歴史性を評価されるには十分に足る時間だ。同じ名古屋の復興のシンボルと言われる名古屋テレビ塔は1954(昭和29)年の竣工だが、半世紀後の2005(平成17)年には登録有形文化財に登録されている。つまり現在の二次形態としての名古屋城天守閣における歴史性は、本来の意味でも十分に評価の考慮に入れられるべき指標で、単純に歴史性の積み重ねの量によって一次形態が勝っているとも、まして二次形態に歴史性が存在しないとも言えないのは事実だ。

 

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日本人はこの二次形態の歴史性にすこぶる鈍感だ。東京駅の赤レンガ駅舎が戦前のドーム屋根の姿に復原されるに際しても、半世紀あまりにわたって丸の内の顔を担ってきた八角屋根の歴史性にはほとんど触れられなかった。歴史性を功利的な手段として捉えるのなら、その姿勢は間違っていないだろう。だが、歴史性を文化的なコンテクストに置くという試みを素通りして一次形態の価値を一面的に強調する態度には、建築の本当の意義が軽視される危険性を内在していると言わざるを得ない。建築を歴史性から切り離して点として捉えれば、二次形態はおろか、一次形態の文化的価値すら見誤りかねない。

 

私は名古屋城天守閣の木造復元それ自体には反対しない。現在の主要な論点である財源については、基金の創設やPFIの導入といった手法である程度は克服できる。問題は二次形態に対する評価だ。推進派は観光や防災の観点から木造復元の必要性を強調するが、一次形態と二次形態の歴史性を文化的コンテクストに置いて比較するという試みには至っていない。反対派は財源論を主張するが、復興のシンボルである二次形態の歴史性が、本物性と歴史性を兼ね揃えた一次形態より優位である理由を説明できていない。

 

建築はそれ単体としてとは存在し得ない。建築は周囲の環境と調和して景観を形成する。景観は歴史性の積み重ねによる産物だ。だから、あらゆる建築は、環境との関係を考慮して、形態のあり方を考えなければならない。それがここで言う「歴史性を文化的コンテクストに置く」という試みだ。二次形態の歴史性が景観の中でいかなる役割を果たすしているのか、慎重に検討する必要がある。功利的に一次形態の価値を主張するだけでは、建築が景観の中で果たす役割にまで手が届かない。

 

 

 



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